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多分独身のころだから50年も前の事です。 
大通りにある札幌資料館に戦争に出征した若者の手紙が展示してあったことを知ってる人はいませんか。

若かった私はその手紙の前から動けなくなったのを思い出しました。
茶色になった紙に薄くなった青い色のペンの字がかすんで、でも「お母さん……」の文字が今もありありと浮かぶのです。
壮絶なはがきばかりでした。
特攻隊の若者の手紙、だったと記憶してるのは私だけでしょうか。
いつからか それは全てがなくなりました。
もう何十年も前の事で私の記憶も怪しいのですが、あの手紙はどこに行ったのでしょう……

メダリストの若者が、特攻隊資料館に行きたい、と言ってるTVを見ながら遠い昔を思い出しました。
こうして、何もかも忘れられていくんですねー

4 thoughts on “思い出したこと”

  1. おはようございます(__)
    私も知覧特攻平和会館に行った時 あまりにも道内出身者が多いのにビックリしました‼️
    ハガキ、手紙の始まりの言葉は全てお母さんでした
    胸が締め付けられて動けなかった自分が今でも鮮明に思い出されます

  2. ミイさん
    私達ってそういう事覚えていますよね。
    手紙はやっぱり「お母さん」で始まっていましたか。
    奄美でも、特攻艇の出撃した洞穴を見ました。
    お兄さんが戦死した人が泣いていました、
    何度も説明しているだろうベテランのガイドさんも泣いていました。
    忘れちゃいけないことでも人の記憶って嫌でもなくなりますねー
    戦後私たちは若かったのに
    歳をとりました。(笑)

  3. 私も知覧特攻平和会館へ行きましたが
    殆どの少年たちがお母さん宛ての遺書で
    1枚も最後まで読めませんでした
    実際のプラモデルの様な
    日本の飛行機が展示されていましたが飛行機には片道の燃料しかはいて無く敵の船に確実に当たる訓練をさせられて居た様です。ぶつかる時は『天皇陛下万歳』と言わなくちゃいけないのに耳に入る無線には
    『お母さ➰ん』と叫んで居たと
    管理説明の年配者の方は泣きながら話されて居ました。私は6年間海外へ戦争に行って居てやっと生きて帰って来た父の事が重なりました。

  4. ポン太さん、そしてミイさんも知覧特攻平和会館の話をしてくれてありがとうございました。
    様子がありありと浮かびました。

    今日の教室でその話をしました。
    やっぱり知覧特攻平和会館に行ったことのある人の話を聞きました。
    そして長い間疑問だったことがわかりました。

    かつて札幌資料館にあったそれらの手紙は、知覧特攻平和会館に集められたのだ、ということを!

    それを私はもう一度見たいか、というとそうでもなくて 触れる事も辛く長い間聞くことも調べる気にもならなかったのです。

    でも行方が気になって……。
    今日は気持ちが、ストンと納得して、スッキリしました。
    話をして良かったです。
    亡くしたくない記憶 亡くしてはいけない記憶がいっぱいあるけど それはどうしても薄れていきますものねー。
    終戦から79年目の夏でした。

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